藤浪 理恵子と初版画集「ドミノ」(フランス人気質)について
なにやらもの憂げで、妖し気なそのうすぼんやりした人物像の作品に、
おやっと心惹かれて、その作家の名前に注視してからもう10年以上の
歳月が過ぎているかも知れない。新人というふれこみにしては、
ばかに老成した作品を描く作家という印象を持った。
以来、藤浪 理恵子という名の画家が、私の脳裏に刻まれた。
どちらかというと人物や顔を描いた作品は好きだと自分でも思うが、
特別意識して蒐集しているわけではない。気が付くとそれを選んでいる
というのが実状である。藤浪 理恵子の作品もそのほとんどが
人物像であるが、特に人物にこだわっているのではなく、頭に浮かぶ
興味ある題材を絵にすると結果的に人物像になっているのだと
彼女はいう。藤浪 理恵子のどこに魅力を感じるかというと一概に
申し上げられないが、私がすでに遠い記憶の中に留めて、
もう忘れかけていたあの懐かしい感覚を想起させてくれるからとでも
いえようか。彼女の描く人物像に、精緻で迫真の描写力があるわけでも、
説得力のある強烈なリアリテイがあるわけでも無い。
だからといって甘美で夢想するようなロマンチシズムに満たされていると
いうことも無い。あぶり出しのように、ある時間の経過と共に
じっくりと像が浮かび上がってきて、いつのまにか観るものの心の中を
満たし、占有してしまうのだ。彼女の作品の人物の眼は、大抵うつろで、
視点が定まっていない。曖昧摸糊としている。
いったい全体あの三白眼はどこを見つめているのだろう?
曖昧さは、眼に限ったことではなく手や体の動きにもみられる。
しかしながら、このあいまいさゆえに、作品が広がりを持ち、
くどくどした説明的な枝葉末節が、省略出来て、画面を陳腐に
させないのだとしたら、 それはそれで彼女の作品を特徴付けて
いることになる。詰まるところ、彼女の画家としての態度が、
閉息された人間社会のひとりひとりの個を見つめる姿勢は失わず、
しかし肉迫するほど近付き過ぎず人が人としてなじめる距離を逸脱せず、
自らの裡に沸き上がるごく自然の情を淡々と表現してゆく。
そんな自らの条理に素直な当を得たやり方を画家、藤浪 理恵子は
当たり前に行っているのだと思う。しかしこのことは、ともすると、
不確実で未成熟で奔放な情念の生成過程で育むべき新芽を途中で
摘む抑止力が働かないとも限らない。十分に昇華してゆくはずの
可能性を秘めた美意識を、狭量なナルシズムで封じ込める危険性を
併せ持っている。しかしながら行き過ぎもせず不十分でもない
この混濁したような世界が目下のところ、人の理にかなうほど
よい魅力になっていることは確かである。
その意味で、彼女が行う様々な表現方法の中で、刷の偶然性に期待が
出来る銅版画という技法は、彼女の特性をより的確に伝えることの
できるメデイアともいえる。しかも彼女がこれまで、細部に
こだわるメゾチント技法をあまり多用せず、若干恣意的な部分を
弱められるエッチングなどの技法を好んで選び制作してきたことも
頷けるのである。藤浪 理恵子自身の造形言語と言える人物表現が
生まれてくる生成途上の段階として現時点を見たとき,ここに優れた
作家の持つ資質と可能性の発露をみて良いように思う。
今回の画廊シェーネでの個展では17世紀ロココ時代を代表する
クラヴサン曲の作曲家、フランソワ・クープラン(通称:大クープラン)
の代表的クラヴサン曲集である「ドミノ」12曲の音色が連想させる、
人間模様を、13点の銅版画で描いた彼女の新シリーズの作品を展覧する。
これらは、藤浪が生涯で初めて、音楽の中の絵画性に着目した作品群で
(あるいは曲の題名と聴覚から派生したものを視覚言語で捉えなおした
彼女の内的な創作テーマといっても良いが、、)
彼女のこの曲集に寄せる熱い想いを是非にも伝えたいとする意欲作
なのである。彼女がそもそもこの曲集に関心を持つようになったのは、
彼女の友人である演奏家、武久源造氏の依頼を契機に彼のリサイタルの
曲目であるこの曲集に振り付ける踊りや光などの構成による舞台美術の
総合的な演出を引き受けたことに拠っている。
彼女は、この曲集の表す、ドミノの仮面の色に因む色彩と人格描写に
大いに惹かれた。曲の意味する限定された枠の中で、主題の人物を
想定し作品に仕上げていく過程で、これまで自然に頭に浮かぶままに
描いてきた人物像とは、全く別の人間を描ける面白さに気づき、
これを自分の作品として残しておきたいという衝動に駆られ、
あらためて約1年半の歳月をかけて構想を練り直し仕上げたのが、
これらの銅版画である。
この曲集の底流に流れる男女の人間模様は、これまで彼女が文学や
聖書など、他人の造った文章を頼りに頭の中で論理的、言語的に
制作してきた作業、つまり脳生理学者スペリーの云う常識や知識などの
理性に関わる左脳中心の発想を駆使せざるを得ないロゴス的制作から
解放され、いわば彼女自身に内抱する未知もしくは無意識のパトス的感性に
働きかけて制作することをより可能にした。
これまで出来るだけ隠蔽しておきたいと思っていた女の情念も、従って
前面に押し出すことに戸惑いがなくなり、この何とも典雅という他ない
「ドミノ」の曲集の音色から連想されるイメージの中で遊べる
楽しさを味わい、同時に彼女自身の閉息した日常性を打ち破ることが
出来たのではないのだろうか?例えば、「はじらい-ばら色のドミノ」の
作品にみられる女性の髪について、彼女は、「これまで女性の髪は
女の一部でしか無いと考えると、女の象徴として描くことに抵抗があった
ので描いたことがなかったが、今回この作品の中で、はじらう女性の
一瞬を描こうとすると描かざるを得ない心境になった、これを
きっかけに今まで極力排除してきた女性の部分を目一杯出そう、、
身体全体で表現すべきだと、、この音楽が教えてくれた」
と語っている。彼女はこの作品の制作にあたって、クープランの
生きた17世紀から後半のバロック・ロココ時代の社会状況や衣装
についての学習をかなりしたという。この音楽の作られた時代を
ただ単に知識として知るだけでなく、我々が先祖から連綿と
受け継がれてきたDNA因子の門を感性を指標に、ひとつひとつを
紡ぎ出しながら、だれもが簡単には行き着けそうもない未知の領域に
足をのばし、生命と自らの真実に辿りつく為に、すっかり17世紀人に
なりきり作品の中に自らを立たせることで、現実感を確実に
享受出来たのだろうと思われる。
彼女が意識しているのかどうかは分からないが、視点の定まらない
作品の登場人物の、あの三白眼は世紀を超えたところを見つめる
藤浪 理恵子自身の眼なのかもしれない。
今後、彼女が画風を大きく変化させるかどうかはわからない。
しかしこの作品「ドミノ」したことで得たものを元に彼女が自らの、
まだ見ぬ眠れる才能に火を点して、より広く大きく深くなっていく
ことを願わずにはいられない。
1998年 藤の花の咲く頃
藤浪 理恵子初版画集「ドミノ」詳細
この13点セットのオリジナル銅版画作品集は、
フランソワ・ クープラン(1668-1733、大クープランと呼称される) が
作曲した クラヴサン曲集の中の 、 第3巻第13組曲、第4番
「フランス人気質」(別名:ドミノ)12曲
の音楽の内容が、連想させる絵画的 イメージに基づき、
画家、藤浪理恵子が、独自に展開構成させて創作した
13点の 銅版画を まとめて、ひとつの版画集「ドミノ」にしたものである。
摺刷:画家、藤浪 理恵子の自刻自摺
用紙:ハーネミューレ紙のみ(サイズ 73x27cm)
装幀など: 旺 慶如 / 布目上製本仕上げ(サイズ 79×30.5cm)
限定セット数:5セットのみ(現在・在庫無)
(他に保存用として作家と刊行者の為の非売の2セットがある)
1998年5月、画廊シェーネ開廊15周年を記念して行われた個展では、
作曲家・大クープランにちなんだ銅版画が 、全部で15点出品
(各作品15部の限定刷)された。
その内13点の「ドミノ」をテーマにした作品のみを、
各15部限定の単品売り作品とは別個に、 用紙のサイズと紙質を
統一させて(紙質:ファブリアーノ紙、用紙サイズ:73x27cm)
さらに各5部づつ摺刷し、13点を1セットにして表装し、
特別限定5セットだけ銅版画集『DOMINO(フランス人気質)』
としてまとめ作家と刊行者の署名入りで 、刊行発売したものである。
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単品作品: バラ売り可能
各作品とも15部限定摺刷
用紙:ハーネミューレ、 B.F.K.グレー紙
ファブリアーノロサスピーナなど、
用紙サイズ: 71x25cm(イメージ:60x15cm)
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